・彼の作品は、どれも、色と構図に、徹底的にこだわっていて、非常に印象的。そして、なにより一番いいところは、、どの作品も分かりやすいこと。彼は、大衆とかけ離れた作品は撮りたくないというのがポリシー。さすが。
→そんな彼のインタビューが、「HERO」「LOVERS」のメイキング映画で、たっぷり見れます。日本でも発売中。
→ もし現地版をお求めの方がいたら、こちら「HERO」「LOVERS」
・まずは、チェンカイコー監督のカメラマンとして、世界的な名声を獲得。
その後、初監督作品「紅いコーリャン」が、ベルリン映画祭グランプリ受賞。
国内でも、空前の大ヒットを記録(一億人が見た?)。
その後の作品も、国内国外の映画賞を総なめ。
そして、 「キープクール」からは娯楽映画路線へ転向し、
ヒット作連発。
海外での知名度は、おそらく、アジアNo1。
・「HERO(英雄)」は、国産映画の歴代興行収入No1(35億円)を記録。おそらく、この記録を破る作品は、今後出ないだろうと言われているぐらいの、記録だそうです。
・カンヌ映画祭グランプリ受賞作品「活きる」。実は、この作品、当局の未検閲まま、海外映画祭に出品。そのため、一時、監督活動禁止の憂き目にあっています。(色々と嫌がらせも受けたそうです。)(ただ、時期もよかったので、結果として、海外との合作を5年間禁止という処分で済んだようです。)
・昔、女優のコンリーと付き合っていたのは有名な話。
・北京電影学院では、チェンカイコー・ティエンチュアンチュアンと同級生。
・ 父が、文革で批判される(国民党士官学校卒業生だったため)。
自身も、ものすごい僻地に下放され、約10年間、農村に。農作業したり、紡織工場の運搬工をしたり、当時、監督は、「自分の将来にまったく未来を感じなかった」そうです。
唯一の趣味は、カメラ。貧しいながらも、苦労してカメラを買い、写真を撮っては、展覧会などに送っていたそうです。
そして、文革が終わり、1978年、北京電影学院撮影科が学生募集を再開したことを知り、受験。
そのときも、一番の希望は、「農村から抜け出すこと」。年齢制限をオーバーしていたけど、気合で、入学。その後の彼の飛躍にとって、とっても大事な転換点に。
・大学卒業後、出身家庭が悪かったため、一番僻地の広西映画制作所に配属。しかし、そのおかげで、若手だった彼にすぐに、撮影機会が与えられ、「一人と八人」を撮影。それが、いきなり、中国映画優秀撮影賞を受賞、内外から注目を集め、その後は、昇り竜のごとき勢いで、成功を収めています。本当に、よかったよかった。
→彼の詳細を知りたい方、 キネマ旬報からこんな本出ています。
→「古井戸」という映画に出演。東京国際映画祭で、最優秀男優賞まで受賞しています。
「キープクール」にも、少し出演。かなりいい味だしています。
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